主祭神は建御名方神様です。
相殿には、各地より合併せられた八坂乃売神・宇気母智神・素盞之鳴命神・大日靈神・大国魂神・大国主神の六柱の神様がお祀りされております。
建御名方神様は、古典の神話などによりむかしから武神・軍神と崇められて来ました
また当社は昔から「ひいらぎ様」といわれています。その名のとおり、柊に取り囲まれているお社です。
柊は昔から魔除けとされ、節分の際、イワシの頭を柊の小枝にさし、間口や門に魔よけとして飾る行事があります。
当社の大神様のご神徳は柊の精を受けて災禍を除け、身体安全・交通安全のご神徳をも兼ね備えています。
当社の由緒は詳らかではありませんが、古老の伝えるところによれば、往時信濃国の諏訪大社より勧請。諏訪明神と称しました。境内に諏訪湖に似た池があり、これを招神池といい、後年になって庭地になったといわれています。
安政二年(1855年)正月の十一日に地頭へ願い出て許を受け、文久二年(1862年)八月に社殿を建替えしたとの記録があります。旧社殿の棟札によれば、享保十七年(1732年)三月再建と記載してあることから、創立年代が古いことは間違いないようです。
その後、大正七年に弊殿および拝殿を造営して現在の社殿の形状となりました。上野国神名帳(西郡部)に従三位諏訪若御子明神とあるのは当社のようです。
天明年間に別当所が災禍に合い、このため古記・古文書等が焼失しており古事は不明です。
社紋は、楮の葉なり。
本殿は、一間社流波風造、一坪なり。
御神木は柊の大木なり。
境内地は六百七坪なり。
難所である多くの坂道を無事に越えることの出来るようにお守り下さる交通安全の神様です。人生にも多くの山や坂があります。転落したら大変なことです。一生一度の人生です。神様にお守り頂き、感謝をし、生命を大切にしましょう。
保食神とも書きます。
御食津神であり、食物をつかさどる神とされています。
五穀の租神です。
いわゆる天津神であり、荒ぶる神ですが同時に罪を祓い清めることを実証せられた神様でもあります。八俣のおろちを退治してこの国の最大の害悪を祓い除くことによって尊い草薙劒を得られ、天照皇大御神様に献奉り、高天原とこの国土とを結ばれた偉大なる神様です。農作の上に責任を持つ神話があり、中世には祇園信仰によって畏敬の対象となりました。大国主神と共に全国の神社でもっとも数多い祭神とされております。
天照皇大神様の別名です。天照皇大神様は、伊勢の内宮に鎮まります天皇の大皇租神であり、天津日の大神様です。
はじめてこの世に神の道をあらわされ、御光の明るく温かく大らかないつくしみの御徳をお与え下さる大神様です。
水もさることながら、日の神のお力によらねば生命あるもの全て生きてはいかれません。
この神様はわれわれの生活圏を守り恵む大きな力の存在を信じて神格化したもので、国土そのものでもあり、また日本国土を守り恵む国土の守護神であります。
この神様は「天の下造られし大神」といわれています。国土を開拓し、国造り村造りをされた開拓の租神で、国の主たる神です。また縁結びの神ともいいます。男女の仲を結ぶだけでなく人間が幸福になるように「縁を結んで下さる」親神様です。
ご祭神は、倉稲魂神です。その昔、宮司の屋敷の真裏に稲荷山という前方後円墳があり、そこにお祀りされていました。
大正二年に、稲荷山より現在の地に移築され、その後、大正七年に稲荷山の土をひいらぎの森(古墳)の南面に盛り土して、現在の諏訪神社の拝殿と弊殿を増築したと言われています。
このお稲荷さまには昔から高崎の町内からも多くの商人が参詣に来たということで、当時の献額などもあります。
お稲荷さまを深く信仰していた、五万石騒動で有名な丸茂元二郎翁には、お稲荷様が身代わりに立たれ、直訴に行った江戸の町中で彼を助けられたという話が残っています。その時の麻縄が有名な「ぬけ縄」であり、貴重なものとして当社に保存されています。
この社は素盞之鳴命神をお祀りする社です。その昔、宇名室と岡の両地においてそれぞれ別にお祀りしていたようです。
文久二年にこの地にチフスの大流行があり、その年に御本社の建替えをした際、旧社殿を現在の地にすえて両地より八坂神社を御遷しして伝染病を鎮める為にお祀りしたものだといわれています。
八俣のおろちを退治したこの神様の御神徳により、荒ぶるものを鎮めまつる御霊力におすがりした信仰であったようです。現在では宇名室の人々によって毎年七月十五日にお祭りが執り行われています。当社においてはこの八坂神社の社殿が今では一番古い建造物となっております。
その昔、現在の新堀の加工場のある所に郷倉屋敷といって、年供米をしまっておいた倉屋敷があったそうです。この「地神尊」はその屋敷に祀られていた神様です。
読んで字のごとく、地神であり、地の神のお力により五穀豊穣を祈念して、お祀りしていたものと思われます。
大正の初めの頃までは、夏祭りが毎年盛大に行われて、新堀・下内出は獅々舞を、宇名室・岡・反町鍛冶屋敷を三側の山車を繰り出して夜の更けるまで神振行事が続いたそうです。
当社には珍しい石があります。力石とも油石ともいわれている卵型をしていた石で、直径は27センチ・長さ70センチです。いつの頃からか村の青年達が力競べをして担いだ石だと言われています。
宇名室の吉井己之吉氏の門口にあったものを御大典記念に神社に納めたものだといわれています。目方は28貫あり、落とすと鉄の様な音がするといいます。今ではとてもこの石を担げる人はいないでしょう。当時は米俵を一俵づつ担いだ時代であり、このような石が、岡にもあり(23貫8百)、高関にもあって、明治・大正の青年達は、担いで持ち去ったり取り返ししたりして力競べをしていたといわれています。
この「手玉石」には当時担いだ人々の魂が篭っており、当時の農民の力の程と農村の状態を知る後世への語り草として貴重な「石」です。
手玉石にちなんでの神話
古事記の「国譲りの段」に面白い話があります。
天照大御神様がこの国土は自分の子孫が治めて行くべき国であるといわれ、出雲の国に建御雷神(たけみかづちのかみ)を遣わされ、大国主神に交渉されました。
建御雷神が大国主神に向って「お前は、この国を自分達に献奉るか」と聞きますと、大国主神は「いや私は、直ぐにはお返事申し上げられません。
自分の子供には事代主神と建御名方神(たけみなかたのかみ)がおります。
この二柱が私に代わってこの国を皇室に献奉るかどうかお返事申しあげることでしょう」と言いました。
そこで兄の事代主神を呼んで話をすると「この国は、当然皇室に差上げるべきです」と言って承知しました。
今度は弟の建御名方神を呼んで話をしようと思っていると、そこに千人がかりでも持ち上げられない様な大きな岩石を二・三本の指で支えて、ゆうゆうと建御名方神が現れました。
そして「誰だ?私の国に来て、こそこそと何事か言っている様だが・・・」と大変荒々しく言われました。
それを見て建御名方神は「お前と俺とどちらが力が強いか力競べをしようではないか」と言いました。すると建御雷神も「そうか、それでは力競べをしよう」と言いました。
建御名方神が「じゃあ俺がお前の手をまずつかまえるぞ」といって建御雷神の手を握ったところが、まるで氷柱のように冷たかったそうです。そうかと思うと、今度は劒のように強健な腕になりました。驚いた建御名方神がびっくりして二、三歩下がってしまうと、今度は建御雷神がそれでは俺の番だといって建御名方神の手を掴まえました。するとその手がやわらかい若茸の様になよなよとした腕になり、建御名方神は体ごとぽーんと投げられてしまったということです。
建御名方神はこれではとてもたまらないとほうほうのていで科野国の洲羽海まで逃げて来て、国譲りを承知したというお話です。
これは古事記の国譲りの神話ですが、力競べの神話が諏訪の神の話として遠い昔から伝わっていることと、当社が諏訪神社であり、この氏子に「手玉石」による力くらべが古くから行われて来たということは、偶然とはいえ何か訳があり意味がある様に思われるのです。
御神宝として折半した古劒がありますが、往古より他見を許されていません。
本殿の右側にあった彫刻「翁像」は文久元年五月、東都日本橋の木彫師、後藤三治郎橘恒徳作によるものです。左右に新たに「神武天皇御姿像」と「天の岩戸開き」の彫刻をおさめ、他に社明額一枚を新調しました。彫刻師は、伊勢崎の池田雅信氏。
五万石騒動の時、江戸へ直訴に行って丸茂元次郎翁が捕えられた時の麻縄で、どこも解けてなくいわゆる「ぬけ縄」です。
年代のところが破損しているので不詳ですが、夫婦像の仲睦まじき様が巧みに造られていることが一見してわかります。岡地区と合併が成った時のものです。